中村が串田に向けて放った暴言は三時間で延べ十九回にも及び、それらを対して何とか理性をたもって一度も手を上げずに説教を終えようとした串田は、自らの自制心の強さにわずかながら誇りを抱きつつあった。
だがそのストレスとともに少しづつ積み上げてきた誇りをぶち壊すことこそが、中村の目的であった。中村は生徒指導室を出る直前、扉を半開きにして、思い出したかのように記念すべき二十回目の暴言を吐いた。
「あ、先生。お話、糞詰まんなかったです」
仏の顔も三度まで、とこんなことわざがあるが、それを考慮すれば串田は仏の六倍以上に心が広いといえる。なにしろ十九回も、時間にすれば三時間もこの生意気なガキの挑発にのらず、穏やかな表情を作りつづけていたのだ。並の大人なら十回目を過ぎた辺りでメリケンサックを装備しているところだ。串田の忍耐は立派だった。
だがそれも、一度野性に戻ってしまえば同じことだった。
締めの台詞をいって立ち去ろうとする中村を呼び止めたその時、串田は獣と化していた。それも獰猛な肉食獣だ。たった一言が、はち切れる寸前まで膨らんだ風船に吹き込まれた崩壊の一息となった。串田は吼えた。
「うおおおおおおおおおおおおおおおお!!」
串田は人としての尊厳を全てかなぐり捨てた。獣となることによって、欲望を満たすためだけに動き、考えるようになった。そんな串田の変貌ぶりにすっかり怖気づいてしまった中村には逃げる術など毛頭無く、なすがままに殴られ、異変に気付いた別の教師が救出に来たときには、もはや人相での判別は不可能なまでに変形してしまっていた。
中村が救急車に乗せられたころ、毛虫丘高校一階に位置する生徒指導室は、戦場の様相を呈していた。合計五人の教師が一頭の獣に立ち向かい、外では何十人もの生徒が野次馬となってその捕獲劇に息を呑んだ。
「く、串田先生、落ち着いて、話しましょう。とりあえずそれをこっちに渡して……」
養護教員の町岡はあくまでも串田を人間扱いして、懐柔を試みようとする。優しい言葉を投げかけながら、そっと近づく。
「駄目だ! そいつに寄るな!」
梅王子が叫び、町岡を制する。生物教師である彼は、すでに串田がまともでないことを見抜いていた。
だが声を上げた時にはもう遅かった。
町岡は串田に手首をつかまれ、逃走は不可能となってしまった。教師達は一様に「しまった」と心の中で嘆く。人質をとられてしまった。これでへたに手出しが出来なくなった。もっとも、理性をなくした今の串田が、そんな計画的なことを考えて町岡を捕まえたとは思えないが。
串田は左手で町岡を束縛し、右手に持った青大将で容赦なき攻撃を加える。
「Oh! Oh! Very pain!」
帰国子女の町岡は反射的に英語で痛みを訴える。鞭のようにしなる青大将は、的確に町岡の尻めがけてその身をぶつける。それは町岡にとって、そして青大将にとっても大変な苦痛だった。生物をこよなく愛する梅王子は、その光景に苦しげに口元をゆがめる。だが人質がいる以上、何も出来ない。他の三人、米王子、鮫王子、油王子も同じく固まったままだ。
「おはは、おは、おはははは」
串田は満たされる快感に酔いしれ、どんどん乱暴に、青大将を振り回した。その一発一発が町岡の絶叫へとかわり、室内はどす黒い感情に支配されていった。
何も出来ず、ただ眺めているだけの自分に耐えられなくなったのか、米王子は唐突に「ひ、人を呼んできます!」と叫んで走り去っていった。逃げやがった、と梅王子は直感した。それを見ていた鮫王子、油王子も機会を逃すまいとそれぞれに「買出しに行ってきます!」、「霊媒師呼んできます!」と素早い動きで町岡と梅王子を置き去りにしていった。梅王子は人間という生き物の非情さを痛感し、一人で戦う決心をした。
串田の執拗な攻撃に、町岡も青大将も限界寸前だ。早く対策を立てねば誰も救えない。
梅王子は初めて授業をした日を思い返し、そのとき自分がどのようにして集中力を高め、乗り切ったのかを考えた。確かあの日は、ざわつく生徒達にひどく緊張してしまって、上手く声が出なかったんだ。でもチャイムが鳴るころには、どうにか予定していた内容を話すことができていた。自分はあのとき、どうしていた? 生徒達の雑談をどう制していた? 質問に答えるときどのように声を出し、自らの知識を述べた? 梅王子は感性を研ぎ澄ませ、今にも途切れそうな記憶を辿った。そして思い出した。そう、自分は生物教師。生物の前では緊張なんてしない。生徒も人間、つまりは生物だ。舞い上がるなんておかしいじゃないか。そう言い聞かせ、心を落ち着けていたんだ。
梅王子はふっと視線を向ける。そこには二人の人間と、一匹の青大将がみえた。その内一人と一匹は自分の味方、いや、一匹はわからないが、とりあえず守るべき対象。倒すべき敵は一人。獣のふりをした、ただの人間だ。身長はそれほど高くない。体格が良いわけでもない。それどころか標準より弱そうに見えるくらいだ。それは彼が眼鏡をかけているせいかもしれないが、とにかく一人でも勝てない相手ではない。問題はどうやって人質を守るか、だが、冷静になって考えてみればそれも大したことではない。なにしろ今の串田には冷静な判断をする知性がかけらもない。平静を取り戻した自分にとっては、犬を手なずけるよりたやすい。
梅王子は頭の中で考えを巡らし、それを基に行動を開始しようとした。
しかし、そこで梅王子は即席で作りあげた計画の欠点に気がついた。思い描いていた計画を実行する為には、道具が足りなかった。
どうする? 自分で買いに行くか、外にいる生徒に言いつけるか、それとも別の作戦を考えるか。梅王子は悩んだが、どれをするにしても時間がかかりすぎることが気にかかった。もはや青大将は振られすぎてしなしなのひもみたくなっていたし、町岡の尻だって相当腫れているに違いない。これ以上の時間を割くのはあまりにも危険だった。
頭を抱え、決断を下せないでいる梅王子は、突然に扉の開く音を聞いた。
「買ってきましたよ!ほら、栄養つけるならやっぱり鰻でしょう」
次いで聞こえたのは鮫王子の間抜け声だった。だが梅王子には、その声の主が神にすら見えた。咄嗟に鮫王子のぶら下げていたビニール袋をひったくると、中に入っていた鰻の蒲焼を取り出し、生徒指導室の隅、串田のいる中央からは離れた場所に放り投げた。
そして叫ぶ。
「ほら、そっちに食い物があるぞ!」
声につられて蒲焼に目をやった串田は、漂ってきた香りにあっさりと負け、町岡と青大将を置いてサッと蒲焼の方へ飛んだ。完全に隙だらけだ。
その間に、梅王子は手招きして町岡を扉の前まで呼び寄せ、なんとか救出した。
蒲焼に夢中の串田は未だにこちらで起こっていることには気付かずにいる。まだまだ余裕がありそうなので、梅王子は素早く部屋の中央まで走って、青大将を回収した。人質どころか武器までも奪われた串田は、それでも隅のほうでうずくまったままだ。梅王子は人でなくなってしまった串田を、僅かに同情する気持ちで見ていた。
それから少しすると、米王子が体力自慢の教師や近くの交番に勤務する警察官などを引き連れて戻ってきた。さすがに数人がかりともなれば、串田になす術はなく、いとも簡単に取り押さえられてしまった。米王子も鮫王子も、逃げたわけではなかったのだ。梅王子は自らの軽率な決め付けを恥じ、今日の事件をきっかけに人という生物をもう少し信じることにしようと決めた。
ちなみに、数時間遅れて帰って来た油王子は宣言どおりに霊媒師を連れていた。もちろん何の役にも立たなかった。
だがそのストレスとともに少しづつ積み上げてきた誇りをぶち壊すことこそが、中村の目的であった。中村は生徒指導室を出る直前、扉を半開きにして、思い出したかのように記念すべき二十回目の暴言を吐いた。
「あ、先生。お話、糞詰まんなかったです」
仏の顔も三度まで、とこんなことわざがあるが、それを考慮すれば串田は仏の六倍以上に心が広いといえる。なにしろ十九回も、時間にすれば三時間もこの生意気なガキの挑発にのらず、穏やかな表情を作りつづけていたのだ。並の大人なら十回目を過ぎた辺りでメリケンサックを装備しているところだ。串田の忍耐は立派だった。
だがそれも、一度野性に戻ってしまえば同じことだった。
締めの台詞をいって立ち去ろうとする中村を呼び止めたその時、串田は獣と化していた。それも獰猛な肉食獣だ。たった一言が、はち切れる寸前まで膨らんだ風船に吹き込まれた崩壊の一息となった。串田は吼えた。
「うおおおおおおおおおおおおおおおお!!」
串田は人としての尊厳を全てかなぐり捨てた。獣となることによって、欲望を満たすためだけに動き、考えるようになった。そんな串田の変貌ぶりにすっかり怖気づいてしまった中村には逃げる術など毛頭無く、なすがままに殴られ、異変に気付いた別の教師が救出に来たときには、もはや人相での判別は不可能なまでに変形してしまっていた。
中村が救急車に乗せられたころ、毛虫丘高校一階に位置する生徒指導室は、戦場の様相を呈していた。合計五人の教師が一頭の獣に立ち向かい、外では何十人もの生徒が野次馬となってその捕獲劇に息を呑んだ。
「く、串田先生、落ち着いて、話しましょう。とりあえずそれをこっちに渡して……」
養護教員の町岡はあくまでも串田を人間扱いして、懐柔を試みようとする。優しい言葉を投げかけながら、そっと近づく。
「駄目だ! そいつに寄るな!」
梅王子が叫び、町岡を制する。生物教師である彼は、すでに串田がまともでないことを見抜いていた。
だが声を上げた時にはもう遅かった。
町岡は串田に手首をつかまれ、逃走は不可能となってしまった。教師達は一様に「しまった」と心の中で嘆く。人質をとられてしまった。これでへたに手出しが出来なくなった。もっとも、理性をなくした今の串田が、そんな計画的なことを考えて町岡を捕まえたとは思えないが。
串田は左手で町岡を束縛し、右手に持った青大将で容赦なき攻撃を加える。
「Oh! Oh! Very pain!」
帰国子女の町岡は反射的に英語で痛みを訴える。鞭のようにしなる青大将は、的確に町岡の尻めがけてその身をぶつける。それは町岡にとって、そして青大将にとっても大変な苦痛だった。生物をこよなく愛する梅王子は、その光景に苦しげに口元をゆがめる。だが人質がいる以上、何も出来ない。他の三人、米王子、鮫王子、油王子も同じく固まったままだ。
「おはは、おは、おはははは」
串田は満たされる快感に酔いしれ、どんどん乱暴に、青大将を振り回した。その一発一発が町岡の絶叫へとかわり、室内はどす黒い感情に支配されていった。
何も出来ず、ただ眺めているだけの自分に耐えられなくなったのか、米王子は唐突に「ひ、人を呼んできます!」と叫んで走り去っていった。逃げやがった、と梅王子は直感した。それを見ていた鮫王子、油王子も機会を逃すまいとそれぞれに「買出しに行ってきます!」、「霊媒師呼んできます!」と素早い動きで町岡と梅王子を置き去りにしていった。梅王子は人間という生き物の非情さを痛感し、一人で戦う決心をした。
串田の執拗な攻撃に、町岡も青大将も限界寸前だ。早く対策を立てねば誰も救えない。
梅王子は初めて授業をした日を思い返し、そのとき自分がどのようにして集中力を高め、乗り切ったのかを考えた。確かあの日は、ざわつく生徒達にひどく緊張してしまって、上手く声が出なかったんだ。でもチャイムが鳴るころには、どうにか予定していた内容を話すことができていた。自分はあのとき、どうしていた? 生徒達の雑談をどう制していた? 質問に答えるときどのように声を出し、自らの知識を述べた? 梅王子は感性を研ぎ澄ませ、今にも途切れそうな記憶を辿った。そして思い出した。そう、自分は生物教師。生物の前では緊張なんてしない。生徒も人間、つまりは生物だ。舞い上がるなんておかしいじゃないか。そう言い聞かせ、心を落ち着けていたんだ。
梅王子はふっと視線を向ける。そこには二人の人間と、一匹の青大将がみえた。その内一人と一匹は自分の味方、いや、一匹はわからないが、とりあえず守るべき対象。倒すべき敵は一人。獣のふりをした、ただの人間だ。身長はそれほど高くない。体格が良いわけでもない。それどころか標準より弱そうに見えるくらいだ。それは彼が眼鏡をかけているせいかもしれないが、とにかく一人でも勝てない相手ではない。問題はどうやって人質を守るか、だが、冷静になって考えてみればそれも大したことではない。なにしろ今の串田には冷静な判断をする知性がかけらもない。平静を取り戻した自分にとっては、犬を手なずけるよりたやすい。
梅王子は頭の中で考えを巡らし、それを基に行動を開始しようとした。
しかし、そこで梅王子は即席で作りあげた計画の欠点に気がついた。思い描いていた計画を実行する為には、道具が足りなかった。
どうする? 自分で買いに行くか、外にいる生徒に言いつけるか、それとも別の作戦を考えるか。梅王子は悩んだが、どれをするにしても時間がかかりすぎることが気にかかった。もはや青大将は振られすぎてしなしなのひもみたくなっていたし、町岡の尻だって相当腫れているに違いない。これ以上の時間を割くのはあまりにも危険だった。
頭を抱え、決断を下せないでいる梅王子は、突然に扉の開く音を聞いた。
「買ってきましたよ!ほら、栄養つけるならやっぱり鰻でしょう」
次いで聞こえたのは鮫王子の間抜け声だった。だが梅王子には、その声の主が神にすら見えた。咄嗟に鮫王子のぶら下げていたビニール袋をひったくると、中に入っていた鰻の蒲焼を取り出し、生徒指導室の隅、串田のいる中央からは離れた場所に放り投げた。
そして叫ぶ。
「ほら、そっちに食い物があるぞ!」
声につられて蒲焼に目をやった串田は、漂ってきた香りにあっさりと負け、町岡と青大将を置いてサッと蒲焼の方へ飛んだ。完全に隙だらけだ。
その間に、梅王子は手招きして町岡を扉の前まで呼び寄せ、なんとか救出した。
蒲焼に夢中の串田は未だにこちらで起こっていることには気付かずにいる。まだまだ余裕がありそうなので、梅王子は素早く部屋の中央まで走って、青大将を回収した。人質どころか武器までも奪われた串田は、それでも隅のほうでうずくまったままだ。梅王子は人でなくなってしまった串田を、僅かに同情する気持ちで見ていた。
それから少しすると、米王子が体力自慢の教師や近くの交番に勤務する警察官などを引き連れて戻ってきた。さすがに数人がかりともなれば、串田になす術はなく、いとも簡単に取り押さえられてしまった。米王子も鮫王子も、逃げたわけではなかったのだ。梅王子は自らの軽率な決め付けを恥じ、今日の事件をきっかけに人という生物をもう少し信じることにしようと決めた。
ちなみに、数時間遅れて帰って来た油王子は宣言どおりに霊媒師を連れていた。もちろん何の役にも立たなかった。
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