「そこに、見えない尻があるでしょう」
男は怪しげな笑みを湛えつつ、私の足元の辺りを指差した。
そこには、カーペット敷きの床が広がっていた。
「見えない尻? 確かに床以外何もありませんが」
「いえ、何もないわけではなく、ただ見えないだけです」
看板に興味を惹かれてドアをくぐったはいいものの、店員と思わしき男の言葉は、初っ端から理解に苦しむものだった。私は早くも不安になってきた。
「見えないものをどう愉しめと言うのですか」
「真のスパンキング好きなら、そのような瑣末な問題は障害にすらならないはずです。そして、この店に入ってきた時点であなたはその領域に入っている。普通の人ならば、このような怪しげな店には近づきもしないでしょうからね」
男の自信に満ちた物言いは、僅かに私をたじろがせた。しかし、こちらもそう簡単に言い包められるつもりはない。私はわざと語気を荒げて言った。
「私はパントマイムをしに来た訳じゃない。この様なもので料金が発生するなんてふざけている」
「料金については、あなたが満足したらお支払いいただくという形で結構です。私の目的はお金を取る事ではなく、この素晴らしい愉しみを皆様に提供することなのですから。でなければこんな物好きな商売はできません」
少し納得しかけてしまった。確かに、こんな店に近づく者は極少数だろう。
「しかし……」
「……そうだ。では今から私が実演いたしましょう。実際に見てい頂ければ、あなたも納得するでしょうから」
男はそう言うとおもむろに私の横に並び、右手を前方に伸ばして腰の辺りの高さで静止させた。そしてそのままゆっくりと広げた手のひらを上下左右に動かす。まるで何かを撫でているような、柔らかな手つきだ。
「確かに見えませんが、ここには紛れもなく尻があります。女性の尻、今は前屈の姿勢をとっていますね」
そう言われても、何も見えない。
ただ、男の挙動はやけにリアルで、実際その場に女性の尻があったところで全く違和感を感じないほどであった。彼がもしパントマイム師であったとしたら、その腕前は相当なものだろう。
「ちょうど一時間ほど前に入ったお客様が彼女の尻を叩いていきましたから、まだ少し痛がっているようです。しかし、スカートの上からですし、遠慮するほどでもないでしょう」
男は喋り終えるが早いか腕をスッと振り上げ、しなやかに前方へと振り下ろした。そして、ちょうど先ほど『尻がある』と言っていた辺りで腕をぴたりと止めた。音もないが、恐らく、叩いたのだろう。
その後、男は何度か同じ挙動を繰り返した後、私の方は向かずに話し出した。
「さあ、もうご理解頂けたでしょう。あなたの望むものは、すぐ目の前にある。きっと、満足されるはずです」
確かに、私は男の実演に驚くほど見入っていた。途中から、私の視界には紛れもなく女性の、尻を突き出した姿が映っていた。最初は聞こえなかったはずの音が、痛みに耐える女性の声が、現実に切迫する現実感を伴って私の感覚を刺激したのだ。しかしそれは、男が一連の動作を終えると同時に消滅していた。
「わかりました。少しやってみましょう」
私は好奇心に負け、男の誘いに乗った。
そして早速、目の前にあるはずの尻を叩こうと腕を振る。
スッ、と大分遠慮した強さで腰の辺りにある尻を叩いた。
そう、叩いたのだ。紛れもなく、私の手のひらには何かに触れた感触が残っていた。そして、男の実演を見ていた時と同じように、私の視界に女性の尻が映り始める。
「これは……」
思わず感嘆した私は、男を振り返った。男はにやりと笑って、頷いた。もう説明は必要ないでしょう、と言っているようだった。
これは……素晴らしい!
私は再度手を振り上げると、今度は少し強めにスナップをきかせて叩いた。
あっ……と声が聞こえる。私は、自らの胸がこれまでにない程に高まっていることに気付いた。これが、私の求めていたものだったのか。
その後も、10、20と回数を重ねていく。次第に叩きかたに慣れてきて強さも増してきた。彼女が痛みに耐え切れず膝を崩れさせた。私はあえて彼女を立たせようとせず、正座をして膝の上に彼女を乗せた。こうすれば、この後さらに辛くなる罰からも逃げられなくなる。さらに、私は泣いている彼女のスカートを捲り、下着を引き下ろした。恥ずかしそうに隠す手を少し強引に押さえつけ、再び叩き始める。30、40回……聞こえてくる声は悲鳴に近くなっていくが、彼女は門限を2時間遅れてきたので120回叩くまでやめるわけにはいかなかった。私には、たった一人の兄として彼女を躾ける義務があるのだから。そう、2年前に両親を失った私たちは、それ以来二人で生活している。まだ高校生である彼女を周りから馬鹿にされない立派な大人に育てる為、私は厳しかった両親に代わり、心を鬼にして鞭を振るう。その甲斐あってか、彼女は随分と素直な、いい子に育ってくれた。それがどうしてか、今日は2時間もの門限オーバー。理由を聞いてもただ謝るばかり。いくら泣かれても今日は許すわけにはいかなかった。今、ちょうど60回を迎えた。私がどうだ、理由を話す気になったか?と尋ねると、彼女はじっと顔を伏せたまま、ぼそりと口を動かした。ごめんなさい、実は
「ちょっと、お兄さん! 何やってるんですか!?」
違う。彼女は私のことを『お兄ちゃん』と呼ぶのだ。それに、声もそんな男らしいものではない。誰だ、一体。人の家に上がりこんで。私は声の聞こえるほうに視線をやった。
「もう朝ですよ。ほら立って。いつまでも酔っ払ってないで」
声の主は、警官然とした格好をした男だった。急な登場人物に、私は頬を張られたような衝撃を受け、同時にここが自宅でない事に気付いた。
「あ……。綾乃は……?」
「それは知りませんけど、今あなたは一人ですよ」
一人? いや、私は確かに妹の綾乃と自宅で……
いやそれも違う。私は店に入ったのだ。そこで、尻を叩いていた。
しかし何故だろう。ここは確かに昨夜の店があった風俗街だが、周辺を見回してもそれらしき看板は見当たらない。当然、店を出た記憶もない。
「なんで……」
「まったく、飲みすぎですよ」
「おい、いつまでやってんだ。そんな酔っ払い放っておけよ」
「あ、すみません。すぐ行きます」
少し離れた場所にいた別の男に声をかけられ、私の隣にいた警官然とした男は走り去って行った。
呆然とした私は、ふと手に痛みを感じた。見てみると、手のひらが腫れて真っ赤になっていた。
男に料金を払えなかったのが、ひどく残念だった。
まどかは突然に叫ぶと、手を大きく振り上げて、握っていたパドルをフローリングに叩きつけた。深夜の一室でその音は大きく響き、しかしまたすぐに元の静けさを取りもどした。その落差によって自分の立てた騒音の大きさに気付いた彼女は、あわてて口をつぐむ。家族に聞かれていなければいいが。
床に転がったパドルは新しく買ったもので、合計十二本目になる。
重々しい光沢を放つそれは、突撃!となりの晩御飯を思わせる圧倒的なサイズと表面の部分にあしらわれた無数のトゲが印象的な、もはやパドルと呼ぶのはためらわれるほどの一品だ。常人なら一発受けただけで泡を吹いてもおかしくはないだろう。実際、これはまどか自身が吟味に吟味を重ねて破壊力に重きをおいて選んだものなので、期待感は今までより数段上だったのだが。
「こんな、こんな弱っちいのじゃ……ほんと、足りない」
やはり、満足には到底至らなかった。それほどまでにまどかの欲望は深く、尻は硬いのだ。
まどかがセルフスパンキングに目覚めたのは、高校に入学して一月ほど経ってからのことだった。
以前からそういった方面への興味は持っていたのだが、生まれてから一度も尻を叩かれたことのなかった彼女には相談できる身近な相手がおらず、ましてや「叩いてください」と頼み込む勇気なんてあるはずもなかった。なので、小・中学時代はどうすることもできず、平穏に退屈にもの足りない日々を過ごしてきた。
高校生になって、入学祝にと両親に買ってもらった携帯電話、つまりネット環境が彼女を本格的に目覚めさせた。
そこで様々な情報を得て、セルフスパンキングという存在を知った。
(自分で自分のお尻を叩くなんて……盲点だった!)
まどかは雷に打たれたような衝撃を覚えた。今まで誰かに叩いてもらいたいという欲求が先行していて、一番身近な存在に気付けなかったのだ。灯台下暗し、とはまさしくこのことだろう。
知ってしまったまどかは、即座に行動を開始した。なんといっても一人でできる、というのは大きい。誰かに叩いてもらうのは恥ずかしくてできそうになかったが、これなら気にすることはない。誰もいない場所ですれば、家族にばれる心配も全くないのだ。
しかしその直後、彼女は期待感いっぱいの笑顔から一転して絶望的な気分へと落ちてゆく。
全く、痛くない。
初めは平手でぺしぺしと叩いてみて、徐々に感触を確かめながら力を強めていったのだが、腕を限界まで振り上げて放った全力の一撃でさえも彼女には何も感じさせなかった。衣類が衝撃を無効化させているのではないかと下着を下ろしてみたり、自分の平手は物凄く非力なのではないかと手近にあった定規を使って試みたりと知恵を絞ってできる限りを尽くしてみたが、それらも全て徒労に終わり、最後に残ったのは彼女にとって最悪といえる結論だけだった。
わたしのお尻、めちゃくちゃ硬い。
確かに過去を振り返ってみても「尻が痛い」などと思ったことは一度もなかった気がするし、改めて自分の尻を触ってみても、出てくる感想はやはりまどかにとって喜ばしいものではなかった。
尻が硬いことと痛みを感じないこととが直接的に関係しているのかどうかは知識のないまどかに判るはずもなかったが、結果はあくまでも残酷で、彼女にとってはそれが全てだった。
それでも、まどかは諦めることなくセルフスパに挑み続けた。叩き方を研究し、道具を買い集め、あげくは基礎体力の向上にまで手をつけ始めた。もうすぐ高三になる彼女は、努力の成果として隠し切るのが厳しくなってきたほどに大量のパドル、ケイン類と、しなるような手首の動きと、更には引き締まった肉体をも手に入れたが、言ってしまえばそれだけで、彼女の最も望むものはいくら頑張っても遠く、姿さえ見せてはくれなかった。
――そして限界は訪れた。
一人の少女を壊れさせるには充分なほどの挫折を、彼女は味わってきたのだ。
もはや行動に意味などない、あったとしても、それは到底まともとは言えない。ただ彼女は唐突に思ったのだ。
「自分じゃどうにも出来なくて、他人にはとても言えない。だったら地球に頼るしかない!」
真理を得たつもりでいる彼女は、着替えるのも忘れて意気揚々と外に飛び出し、近くの公園まで歩を進めた。そこらの路地裏でも問題なかったが、出来ればちゃんとした土の上で試してみたかった。
公園はそれほど広くなく、深夜ということもあって人の気配はまるでなかった。街灯の光を浴びたブランコや滑り台が静寂と共に佇んでいる。
その中に足を踏み入れたまどかは、興奮抑えきれぬといった様子で辺りを見回し、入念に人が来ないことを確認した。一応、人に見られたら恥ずかしいという意識は残っているのだ。逆に言えば、見られさえしなければ問題ないとも思っているのだが。
やがて、準備完了、と小さく呟き、昂ぶる気持ちを少しずつ開放するようにゆっくりと息を吐いた彼女は、カッと目を見開くと吐いた息を今度は一気に吸い込み、渾身の力を脚に集めて月まで届けとばかりに思いっきり跳んだ。そして宙に上がった彼女は、両脚をたたんで三角座りをするように抱えこむ。
「――っ!」
一瞬の後、公園内の静寂はわずかに破られた。まどかの尻が地面とぶつかる、どっ、という音によって。
まどかは全身を抜ける衝撃に頭を揺られて数秒間ぼおっとして何も考えられなかった。心身ともに準備万端だったとはいえ、尻から地面に落ちるなんて経験はそうそうないために体が対応し切れなかったのだ。
痛みはその後にやってきた。
彼女は落下した時と同じ姿勢のままで「ううー」と唸りながら痛む箇所を両手で強く抑え、深夜の公園で一人呟く。
「んで…………」
痛みのあまり地面に横向きに倒れこみ、彼女は更に唸り続ける。地球に向かって呪詛を投げかけるように。
「なんで……腰……なの……」
硬い地面との衝突によって発生した衝撃は、当然の如く腰部に殺到した。予想外の事態に陥ったまどかは、様々な思考を全てふっとばして、パジャマ姿で冷たい土の上をごろごろ転がる。生地や髪に砂がつくことなど気にしていられない。とりあえず今は、やり様のない怒りと失望感と腰を襲う鈍痛で頭がいっぱいだ。
これで泣かない人がいたら会ってみたい。
涙で濡れた顔に砂粒をつけながらまどかは思った。
しばらくして腰の痛みもある程度治まったころ、まどかはようやく意味不明な思考から目を覚まし、緩んだネジが締めなおされた彼女は、そこでようやく尻の痛みが皆無であることに気付いた。
結果はプラスどころかゼロにすらならず、腰痛と最低な気分だけがマイナス要素として残されたのだった。
そして新たな挫折を味わった彼女は、いまだじわじわ痛む腰を両手で押さえ、半ばブリッジのような体勢で夜空を仰ぎ、己の行動の愚かしさを叫ぶ。
たった一言で、明確に。
「馬鹿か!」
「で、でも……わたしは」
駅前の、人でごった返す広場。
真上に昇った太陽の下で、ここなら騒がしすぎるからベタなナンパを繰り広げても目立たないだろうと予測した変態風の男は、粘着質な口調でターゲットの少女に詰め寄っていた。
「ぼ、僕と缶コーヒーを啜りあおうよ、ね」
「ごめんなさい。わたし用事が……」
「じゃあ早飲み対決しよ。それなら時間とらせないから」
少女が気弱な態度を見せるのをいいことに、男はぐいぐいと顔を近づけて更にまくし立てる。握り締めて手汗をまとった五百円玉は、本日のナンパ費用だ。
「コーヒーは、おごるからさ。すぐそこだよ。行こうよ」
「……やめてください。離して……」
五百円玉を持っていないほうの手で少女を捕まえた男は、荒れた息を吐きながら強引に歩みを進めだした。このまま自販機まで引っ張り込みさえすれば後は何とでもなる、という魂胆である。犯罪者に限りなく近い思考だ。
「ほら、来てよ。早飲みしよ。負けても割り勘になるだけだから、損はしないよ」
「嫌……やめて」
男が少女を握る手に力を込めた。少女は痛そうに顔をゆがめ、心の中で叫んだ。
(助けて!)
だがそんな声を聞きつける者は当然おらず、広場を行き来する人々は無関心に男と少女のそばを通り過ぎる。誰もが二人のやり取りを風景の一部として捉えていた。
少女は悔しさに歯噛みした。友人との約束もあるのに、電車に乗らないといけないのに、こんなところで……。街は騒がしいはずなのに、彼女には凍りついているようにさえ見えた。
そして、ここではっきりと断れず、大声で助けを呼べない自分も……
と、その冷たい空気をぶち破るように、どこかから声が響いた。
「やめろおおお! 悪事は私が許さん!」
男は突然の大声に驚き、辺りをキョドキョド見回した。「悪事」という単語から自分を指しているのだとわかったところを見ると、どうやら悪いことをしているという自覚はあるようだ。
「貴様だ貴様、そこのリュックの男!」
「!」
声が左から聞こえてくることに気付いた男が割とすばやくそちらに振り向くと、そこには、人ごみに隠れながらも十分に目立つ服装をした一人の変な人が立っていた。
――変な人
まさしくそう呼ぶにふさわしい。
原色そのままの真っ赤な全身タイツに身を包み、頭部は同じく赤のマスクで覆い尽くしている。目や口を出す穴すら見当たらない顔面には、唯一黄金に輝く「S」の文字が大きく張り付いている。
まるで血液が人をかたどって動いているかのような気色悪さだ。
「少女よ! 今助けるぞ!」
少女には、あの赤い人物が自分を助けてくれる存在だなんて微塵も思えなかった。それどころか、背筋をピッと伸ばして腕を大きく振りながら近づいてくる姿は恐怖すら感じさせる。周囲の人々も危険を感じたのか、たっぷり三人分ほどの道を空けて流れてゆく。
いけない! このままでは今とは比べものにならないくらい酷い目にあわされる。
逃げないと!
男と少女、二人同時に思ったときには、もう遅かった。大股気味に歩いてきた謎の赤男は二人の前に立ちはだかり、見えない口からよく通る声を吐き出した。
「私は正義の戦士、スパレッド! 白昼堂々誘拐を企てる不届きな輩め。存分に仕置きをしてやる、覚悟しろ!」
「そ、そんな。僕は誘拐なんてしてない、ただお茶に誘っただけ」
「黙れっ!」
謎の男、スパレッドの怒声が空気を震わせる。言い訳は一切受け付けない体制だ。男は見事にひるまされ、二の句を継げなくなった。
「先ほど、貴様は無理やり彼女を自販機まで引きずり込もうとした。その証拠に、彼女は嫌がる声を上げていた。私は目も耳も良いのだ」
「……うう……」
全てを見られていた……。それを聞かされた男は、少女と五百円玉を握るそれぞれの手を力なく地に垂らした。アスファルトの地面に甲高い音が響く。
「罪を認めろ、青年。いま素直になっておけば、正義の一撃を受けるだけで済むぞ」
そう言うと、スパレッドは背中から人を殴るのに最適な長さの真紅の棒を取り出した。「ジャスティス・ロッド準備完了」と呟き、野球選手さながらの豪快な素振りを始める。
「……そんな……ただ、ナンパをしただけなのに」
シンプルな打撃用武器を目にした男は絶望的な表情になり、膝を地に落とした。
そして、そんな男の姿に対する同情心と、これから起こるであろう惨劇の目撃者になりたくないという気持ちとが混ざり合った少女は、震える声でスパレッドに話しかける。
「そ、そうですよ……いくらなんでも、それで殴るのは」
「黙れっ!!」
スパレッドは興奮状態に陥っているようで、少女の願いは怒号一発かき消された。
「このロッドで、人を蝕む悪の心を打ち砕く。それが……それが私の」
男のななめ後ろに立ったスパレッドは、大きくロッドを振りかぶり、膝立ち状態の男の尻に照準を合わせる。太陽の光に顔面のSがギラリと反射し、
「正義だあああああああああ!」
死ぬほど痛そうな音が鳴り響いた。少女は思わず目を瞑る。
「………………っ!」
男は白目をむいてアスファルトに倒れた。周囲には、見てみぬ振りをする大勢のほかに物珍しさから見物を決めこむ数名もいたのだが、彼ら彼女らは仕置きのえげつなさを目の当たりにしてついに逃げ出した。
男は、そのまま動かない。
「ふう……これで悪は潰えた。青年よ、もう乱暴な真似はやめておきたまえよ」
当然、返事はない。
「さて、では帰るとするか。…………ああ、そうだ。少女よ、怪我はないか」
「ひっ」
ほんの数分前に悪魔の裁きを行った男の声に、少女は身をすくめる。恐怖で言葉が出てこない。
「怖がることはない。ほら、悪い男は私が成敗した」
「…………」
「そういえば名前を聞いていなかったな。私はスパレッド、キミは?」
「…………」
「怖い目にあったのはわかるが、黙っていては私も困る」
そう言われても話せないのだからどうしようもない。少女は眼前の威圧的な存在に対して、うつむくことしか出来なかった。沈黙が続く。
やがて、スパレッドは一つため息をつくと、仕方がないといった感じで小さく呟いた。
「……ジャスティス・ロッド再準備」
ぐうっ、と持ったままになっていた必殺の武器を両手で力強く握りなおし、リプレイを見ているかのように先ほどと同じフォームの素振りを開始した。
「ひいっ」
この光景には、さすがに悲鳴が漏れる。少女は無理やりにでも逃げようと、固まった足を僅かに動かした。
しかし逃走はあえなく失敗。スパレッドは少女の二の腕の辺りを興奮気味に掴むと、演説をするように声を張り上げる。
「無視は! 無視はいかんぞ! 人を傷つける行為だ! 現に私も、いま、傷ついた! それはもちろん身体の怪我ではない! わかるか、心だ! 心が大いにえぐられた! よって執行!」
「いやー!」
少女の必死の叫びが駅前広場に響き渡る。ロッドは天高くに突き上げられ、後は振り下ろすのみの状態だ。
「くらえ! 正義の――」
「助けてー!」
……そこからの少女は、ほとんど意識を失った状態だった。
最後に耳に入ってきたのは、スパレッドの咆哮と、そしてかすかなサイレンの音。
あとは、自分の涙を吸い込んだ黒いアスファルトや赤い光を点して走り去るパトカーなどの映像が断片的に残っているだけだ。
気がつけば陽は傾いていて、彼女は自宅の前で立っていた。ここまでの経路は全く記憶にない。
まず思い出したのはすっぽかしてしまった友人との約束で、謝らないと、と家に上がるよりも早く携帯電話を取り出した。
(あの変な人、一体なんだったんだろう)
携帯を耳に当てながら、ふと思った。深くは考えなかった。
電話が繋がる。
「もしもし。……うん、ごめんね。ちょっと、いろいろあって……」
不意に、尻が痛んだ。今まで気付かなかったのが不思議なくらい強い痛みだった。